事件の後、あいつの笑い声がしばらく耳から離れなかった。でも、あらゆる面から考えて、これしかなかったとオレは納得することにした。
笑いが収まると、意外なことにあいつは答えを教えてくれた。正解かどうかはわからない。依頼主とあいつにしかわからないことだ。
声だけですぐにわかった。あいつだ。以前の事件では煮え湯を飲まされた。仇敵だ。もっとも向こうもオレに煮え湯を飲まされたと思っているかもしれない。痛み分けというヤツだ。
「待て! 相手はオレのことを知っているのか? いや、そもそも何者なんだ?」
「そりゃ、こういうことがあるからだよ。オレだってちょっとは修羅場を踏んできてるんだ。関係者が一番ヤバイってわかってる。」
まだばれていないと思っているんだろう。残念なことにオレは、豊かな想像力の持ち主じゃない。こいつがなにをしたかわかる決定的な情報を得て全貌を理解しただけだ。
「犯行は一度だけじゃなく、何回も繰り返し行われていた。派手にばれたのが、今回だっただけだ。今回だって複数の人間が犯行に及んでいた可能性もある」
ここまででわかった、あるいはわかったつもりになっているのは、この事件へのアプローチ方法だけなのだ。トリックを見抜いた、なんてとても言えない。本番はこれからだ。
「やらなくていいんじゃないですか」革命的なひとことを発した。
警察、検察、推理小説という存在を根底から覆す提案だ。
目から鱗が落ちるとは、このことだ。
鱗が落ちて新しい世界が開けたが、前の世界よりもさらにいろいろな可能性が大きすぎる。
「なに言ってんの?」
「明日も会社なので、突然肉欲に目覚めたのなら他を当たってください」
「なんか怒ってるの?」
「別に。ただ急だなあ、と思っただけです。自分の会いたい時に簡単に会える安い女ではないことをきちんとお話しておくべきだと感じました」
そして、数日後待っていたものが届いた。オレがいつも最初に頼むものだ。
これといった収穫はなかったが、いくつか気になることがわかってきた。会社に残っている社員は、個人情報漏洩をそれほど深刻に受け止めていない。まあ、深刻な影響を受けた人間は退職したからいないわけなので、当然と言えば当然だ。
大島は露骨にいやそうな顔をしてみせた。その気持ちはよくわかる。
社内の雰囲気は、最初リラックスしていていいオフィスだな、と思ったが、微妙な緊張感がある。びりびりしているというほどではないが、なんというか静電気がたまっているような感じだ。
これといって特別なオフィスではなかった。平机とその上に置いたノートPCがずらっと並んでいる。光景だけ見ると、最先端のIT企業とは思えない。システム部くらいは、低いパーティションで個人ごとに区切ってやってもいいんじゃないかと思った。
そこまで話して、オレは大事なことを忘れていたのに気がついた。「オレはまだ現場に行ってない。関係者の話も聞いていない。うっかりしてた。変な状況に気を取られて基本を忘れてたぜ」
「ひとりずつの情報をどっかに売っていたのかもしれません。ネットで電話番号や職場、住所を調べる怪しいサービスがあるじゃないですか。ああいうのの隠れた協力者になっていて、頼まれると社員データを検索して、ヒットしたらその人の情報を売るんですよ」
あるはずない、と思わず言いそうになったが、可能性を否定はできないことにすぐ気がついた。オレは、しばらく絶句した。
大島自身は物理的に離れた子会社にいたためアリバイが成立している。社内サーバーが再稼働する前に帰宅するという念の入ったアリバイだ。完璧すぎて、逆に怪しさ満載なのだが、このアリバイは崩せないような気がする。
ふたりの内緒の相談が終わると、大島は大量のデータと書類を持ってきた。オレはそれを抱えR式サイバーシステムを出て、自宅兼事務所に戻って状況を整理してみた。
「ちょっといいですか?」沢田は、もみ手で作り笑いを浮かべた。オレに訊かせたくない相談があるというジェスチャーのつもりだ。
沢田は、オレのエージェントだ。主な仕事は自分の手に負えないサイバーセキュリティ案件をオレに押しつけ、オレの出した見積もりを二倍以上に水増しすることだ。
まんまとしてやられたとしか言えない。社内の個人情報を内部の人間が漏洩させたなんていうしょぼい事件に、2,000人以上の容疑者を用意した時点で相手の勝ちはほぼ確定だ。
大島の言葉が終わる前に、オレの横に笑顔で腰掛けていた沢田が机に両手をついて頭を下げた。そして大声で謝る。「あっ! すみません! 以後気をつけます!!」
技術的な追跡が無理となれば、オレの出番だ。犯人をうまくおびき出し、罠にはめて捕まえる…という活躍を期待して呼ばれたと思うのだが、どうも今回はそうもいかないようだ。
ここはR式サイバーシステム社の会議室。ぬるい会社だからリピートオーダーがあるんじゃないかと期待していたが、本当にそうなった。しかも今回は部長自ら出てきた。グレードアップしてる。喜んでもいいはずだが、思ったよりもやっかいな案件なので手放しでは喜べない。
インターネットは巨大な昏い海だ。悪意も善意もまとまりのなく漂っている。だが、混沌の中にひとたびファネル(漏斗)が生まれれば、そこに悪意が集積され濃縮され、そして思いもよらない形でリアルを浸食しはじめる。