インディアナ大学の大学院に入る前、佐藤は Fatebook 社に勤務していた。学部卒で本社に入るのはかなりのレアケースだ。たまたま大学の先輩が本社に勤務していて、佐藤の学会発表の内容を見て引っ張ってくれた。アジア方面のマーケティング部隊で人手不足だったのですんなりと入社することができた。
「適当なところで見切りをつけて他社に移れよ」
先輩は最初にそう言った。
「ここは環境も報酬もいいが、大義がないから心を病むヤツが多い」
「大義」とは聞き慣れない言葉だ。
「正義とかですか? 金儲けに走って倫理観がないとか?」
「うーん、正義とは違うんだよな。なんかこう自分を納得させられるものだよ。戦争にだって大義が必要だ。大義がないと人が動かない」
そういえばこの先輩はミリオタだったと思い出す。しかし大義のある企業なんてむしろ少数派なんじゃないだろうか?
「きれい事でもなんでもいいだよ。社員がいざという時により所にできるなにかがあればいいんだ。たいていの企業は自社のアイデンティティとしてそれを持っている。戦略上必要だしな。でもここは違う。いや、いちおうあるんだけど、それに反することばかりしてるから誰も信じられない。優秀なヤツほど病みやすくなる」
「じゃあ、ザンダーバーグはどうなんです?」
この会社の頂点に立つザンダーバーグは金のことしか考えていない。彼は創業時からずっとトップに君臨しているし、心を病んでいる様子もない。
「あいつはモンスターだ。大義がなくても平気なんだよ。ふつうの人間の感覚がない。あいつと同じようにはなれない。だから適当なところで辞めた方がいい」
言われた時はよく理解できなかったが、数年働くうちにだんだんわかってきた。Fatebook は世界に災厄をもたらしている。それがわかっていても金儲けを続けられるから止めない。違法ではないから誰も止められない。プライバシーや独禁法で間接的に規制をかけようとしているが、ザンダーバーグの方が常に先を行っている。法制度はイノベーションに追いつけない。
他の IT 企業はザンダーバーグほど割り切っていないし、一線を越えれば社員が猛反発する。でも、Fatebook 社の社員は決して反旗を翻さない。数年働くと感覚が麻痺してくるからだろう。先輩の言う通り、ここで働き続けたら人間でないものになってしまうか、心を病むかのどちらかだ。
それでもなかなか辞める決心はつかなかった。条件がよかったこともあるが、なにより自分がなにをしているのか知りたかったのだ。Fatebook を世界に広げることの本当の意味を知りたかった。もしかしたら恐ろしく罪深いことかもしれないが、それでも知っておかねばならない。
だが、知れば知るほど Fatebook は底が知れない会社だった。いや、ザンダーバーグの底が知れないと言った方が正しいだろう。世界のほとんどの人が知らない間に Fatebook は民間企業の枠を逸脱していた。Fatebook は傘下に、WhatsOn、Instagraph、Fatebookメッセンジャーを擁する世界最大の SNS 企業ということまでは知っている者は多いだろう。しかし、2018 年の SNS 利用者(DAUs:デイリー アクティブ ユーザーズ)のシェアでは上位 10 に前述の 4 つのサービスがランクインしており、のべ利用者は 63 億人(2018 年の世界人口がおよそ 76 億人)ということまでは知らない者がほとんどだ。なお、トップ 10 の残りの 5 社は中国系 SNS 企業と YouTube である。世界の SNS 利用者は Fatebook と中国系 SNS の寡占状態にある。最近、Fatebook の副社長になったリック・クレイグ(前職はイギリスの政治家)は、公然と「Fatebook を排除すれば中国がのさばる」と口にしている。
ある調査によればアメリカ成人のニュース接触率では、Fatebook が 43 %とずば抜けて多い。もはや Fatebook はニュースメディアを超えたニュースメディアでもあるのだ。
通信インフラにも進出し、通信用の海底ケーブルを敷設し、高高度疑似衛星(HAPS:High-Altitude Pseudo Satellites)にも挑戦している。仮想通貨 Libra を立ち上げ、世界を網羅する金融機能も実装するつもりだ。
まさに情報のコングロマリットであり、混沌として全体像をつかむことすら難しい。自分が巨大な化け物の体内に寄生しているような気分になった。
葛藤する日々が続く中、カンファレンスで知り合ったインディアナ大学の教授から研究室に誘われた。Fatebook 社に比べればほとんどボランティアに近い条件だったが、自分のしてきたことがわかるかもしれないと思ってすぐに飛びついた。
そして今、佐藤は自分がしてきたことを受け手の立場で解析している。Fatebook 社がアジア各国に提供してきた無償インターネットサービスがなにをもたらしたか、SNS がなにをもたらしたか。ネットが開かれた公平な世界をもたらしてくれると人々は期待するが、実際にやってくるのはヘイトと世論操作だ。「悪魔は天使の顔をしてやってくる」というのは Fatebook にこそふさわしい、と佐藤は最近よく思う。
だが、どこまでいっても Fatebook は道具に過ぎない。あくまで使う側あってのことなのだ。今回のことだって軍部の意思があって初めて起きた事件だ。過去に自分がしてきたことを見直し、正しい使い方を広めることで禊というと大げさだが、自分なりのけじめにしたい。荒垣の元に身を寄せたのはそのためだ。
「これまでとは違うアプローチが必要なんだ。もはや政治も外交も過去の方法論ではたちゆかない」
荒垣が独り言のようにつぶやく。所員一同が顔を上げる。独り言のようだが、全員に聞かせるつもりで言っていることが伝わってきた。
「だから佐藤くんや吉見くんに来てもらったんだ」
名指しされた佐藤は反応のしようがなく、ちらりと吉見に目を向ける。自分に視線を向けていた吉見と目が合って苦笑する。吉見は素性のよくわからない男だ。年齢は三十歳前後でどこかに所属していたらしいが、所長も本人も前職のことは語らない。主に中国関連の案件を手がけている。
「外交は総合芸術だ」
荒垣の最近の口癖が出た。次の言葉が予測できる。
「“我らは時代の狭間にいる”」
誰かが荒垣の言葉を先取りした。