荒垣外交研究所は所長室といったものはなく、いわゆる大部屋方式でワンフロアを間仕切りなしで使っている。
佐藤が荒垣外交研究所に戻ると、数人の所員が顔を向ける。
「ただいま戻りました」
佐藤がそう言いながら自分の席へ向かおうとすると、所長が不思議そうな顔で自分を見ていることに気づいた。
「自分たちだけでできるということで帰されました」
佐藤は言い訳がましくそう言うと、自分の席に腰掛ける。
「ほお」
荒垣は手元の書類に目を落とした。あまり気にならないらしい。
「それにしても不思議な女たちだったな」
書類を読みながら荒垣がつぶやいた。佐藤は思わず顔を上げる。荒垣が会った人物について「不思議」という形容詞を使ったのを初めて聞いた。
「あの如月という女はなんというか、この世の者ではない感じがした。とらえどころがない。妖狐のようだった」
「所長がそんなことをおっしゃるのは珍しいですね」
「君はどう思った?」
荒垣に水を向けられて、佐藤は回答につまった。違和感はあったが、そこまでではなかった。
「変わってるとは思いましたが、そこまでではなかったです。それよりほんとうに三日でできるのか気になります」
佐藤の言葉に荒垣はうなずく。
荒垣外交研究所は私立大学で外交を専門にしていた荒垣が独立して始めた研究所だ。外務官僚や政治家の知り合いからの調査や委員などの依頼を引き受けている。所員は 6 名と小規模だが、定期的にレポートを発行し、三百名弱の読者が購読している。年間購読料百万円なので悪い商売ではない。これに加えて調査や講演の依頼があるので個人の研究所としてはかなりうまくいっている方だろう。
佐藤はアメリカのインディアナ大学にいた時に発表した論文を読んだ荒垣に誘われて入所した。それ以来ネット世論操作に焦点を当てた調査を専門に行っている。といってもシミュレーションモデルを利用すれば、ほとんどの依頼はあっという間に解決できる。それに荒垣がもっともらしい解説を書き加えて終わりだ。
ネット世論操作は SNS の普及とともに世界各地に広がった。政治家が自国内の世論を操作するためだけでなく。他国に仕掛けて社会を分断させることもある。主なターゲットは選挙で、世界の選挙のほとんどでネット世論操作が確認されている。候補者がそれぞれネット世論操作で敵対候補を攻撃し、ロシアなど海外からも干渉がある。それを防ぐために政府、メディア、ファクトチェック組織が共同してプロジェクトを進めている。
二〇一六年にロシアがアメリカの大統領選にネット世論操作を仕掛けたことで一気に知名度があがり、数少ない専門家は世界各地で引っ張りだこになった。
ネット世論操作の影響力は甚大で安全保障上の問題として認識され、ネット世論操作をいかにして押さえ込むかが重要な課題となっている。日本ではメジャーではないが、これからの世界を考える上で欠かせない問題だ。
今のところ日本で数理モデルを元にネット世論操作を解析できる組織はないから、荒垣外交研究所は独占状態に近い。完全に独占でないのは、実験レベルのシミュレーションモデルを構築している研究者が日本国内にもいるためだ。それでも日本は世界に比べると大幅に遅れている。わざとそうしているとしか思えないくらいだ。世界の国々は二〇一四年頃から脅威に気づき、対策を講じ始めた。二〇一六年のアメリカ大統領選でのロシアのネット世論操作が暴露されてからは、その動きが加速した。欧米はもちろんアジア、ラテンアメリカ、アフリカでも政府の対策に加えて民間のファクトチェック組織が整備された、世界的な連携が行われるようになった、日本を除いて。なぜか日本政府は頑なにネット世論操作のことを話題にしようとしない。大手メディアにもあまり触れないように口止めしている節がある。
だから如月姉妹社の如月があのモデルをすぐに理解したのは驚いた。しかもたった三日で結論を出すという。どういうことなんだ?
「あのふたりは違う結論を出しそうかな?」
荒垣が書類から顔を上げずに佐藤に訊ねた。
「おそらく結論は変わらないですよ。あのふたりも僕の話に納得していました」
「そうか……どうもなにかひっかかるんだがな」
「日本政府としての対応が難しいからですよね? それは犯人とは関係ないことなので」
「そうではなくて……ほんとうに犯人なのかな? 軍部が犯人だというのは非常にわかりやすい結論であり、裏付けとなる動機や虐待への直接および間接的な関与の証拠はたくさんある。だからよけいにひっかかる」
「バレバレだから逆に怪しいということですか? 考え過ぎですよ。所長だっていつもおっしゃってるじゃないですか、もっとも簡単明瞭な説明が正しいって」
「うむ。まあそうなんだがね」
荒垣があいまいに応える。その時、佐藤のスマホが鳴った。
「ああ、如月さん……はい? え? ええ、まあ、かまいません」
如月からの問い合せだった。
「なんだって?」
電話を切ると荒垣が書類から顔を上げていた。
「他の国のシミュレーション結果もあれば参考にしたいそうなので、すでに論文などで公開済みのデータを送ります。なにをするつもりなんだか……」
あいつらどこまでやるつもりなんだ。本当にできるのか? 佐藤は半信半疑になったが、それでも数カ国分のデータをまとめて送る。ふと気がつくと荒垣がにやにやしている。
「所長、楽しそうですね」
「うん? 彼女たちがなにを見つけたのかなと思ってさ」
「素人ですよ。期待しない方がいいと思います」
「君の分野ではね。しかしサイバー空間では彼女たちの能力と経験は侮れない」
「お言葉ですが……」
「いいからいいから、三日後を楽しみにしていよう」
「まさか。また所長も行くんですか?」
「行くよ。だっておもしろいじゃないか、定説が覆されるかもしれないんだ」
「ありえません」
佐藤はため息をついた。もし違う結論が出たら? という懸念が頭をよぎるが、軍部以外に犯人がいるはずがない。と同時にそう思い込もうとしている自分に気がついて苦笑する。
つづく