私たちは古い神話と新しい神話の狭間に浮かんだ泡沫の物語だ。
人間が集団として活動できるのはせいぜい150人が限界だ。それを越えると、人ではないものの力を借りなければ集団を維持できない。それは価値観であり、論理であり、思想であるのだけど、しょせん根拠のない物語にしかすぎない。人は論理や体系を求めるが、人間の論理や体系には瑕疵があり、簡単に瓦解する。感染症が蔓延したくらいで経済が崩壊するように、思想が蝕まれれば社会は霧散する。
瑕疵のある思想は物語、神話だ。私たちは百年の間、民主主義という甘美で誤謬の多い物語を共有してきた。核兵器がそれを後押しした。核兵器のおかげで、できるだけ多く徹底的に破壊し殺す能力の重要性は減少した。世界を何十回も滅ぼせるうような兵器はもはや使用することができない。大規模な戦争は鳴りを潜め、私たちはつかの間の平和と享楽に酔った。民主主義が世界に広がり、自由と人権が人間の基本的な権利となった。
しかし二十世紀終盤から民主主義の物語は崩れだした。あと五年で世界は新しい物語の中に包含され、私たちはその物語を通してしか考えられなくなる、これまで自由と人権を前提に物事を考えているように。
未明の悪夢で如月は目覚めた。上半身を起こして窓に目をやると、朝焼けの朱がカーテンごしにほのかにわかる。隣で寝ている裸体の女は起きる気配はない。腰から脚にかけて淡い光が照らしている。
── これは生き物だ
唐突に意味のない言葉が浮かんできた。そうこの女は生き物で、自分もそうだ。この部屋にはたったふたり、でも枕元のスマホを手にしたとたん、数十億人とリアルタイムでつながることになる。自分たちはアンバランスな情報デバイスを組み込んだ儚い構造体なのだ。
夢の内容を思い出そうとしたが、思い出せない。じんわりと心臓から胃にかけて重くなる。とらえどころのない不安が如月の胸にせり上がってくる。
新しい物語がどのようなものになろうとも生きなければならない。如月は自分自身に言い聞かせる。
東京の学芸大学駅にほど近い古いビルの三階。最上階と言えば聞こえがいいが、エレベーターすらなく、歩いて昇らなければならない。古いだけでなく小さいビルなのでワンフロアに一部屋=一社しか入っていない。
── 如月姉妹社
階段を上りきると目の前に扉があり、なんの説明もなくただ社名だけ達筆な楷書で書かれた紙が貼ってある。ふつうならせめてちゃんっとした看板くらい出すものだが、この事務所を訪れる者はふたりの社員兼経営者以外にはほとんどいないから必要はない。
箱崎有紀(はこざき ゆき)は退屈だった。やっかいな仕事が終わり、骨休めしながら次の仕事に向けての情報収集をすべき時期なのだが、その気になれない。かといってだらだらしているのも性に合わない。結果として退屈になる。美容院にでも行こうかと思ったが、先週行ったばかりだ。スマホで自分の顔を確認すると、短髪につり目の女がこちらを見ていた。見る度に、皺や塗り残しが見つかるのはどういう仕掛けなんだろうと思う。
相棒の如月今鹿(きさらぎ なうしか)は次の仕事の準備をしているらしく、向かいの席でずっとディスプレイをにらんで、時々メモをとっている。如月は如月の黒髪が好きだ。濡れているような黒髪がタールのように脳天から肩にかけて垂れている。整った顔に大きな目。でもめったにちゃんと目を開けない。少し薄目がちにしていることが多い。病的に白い肌にブラックホールのように真っ黒な髪の対比はまるでモノクロ写真のようだ。唇だけ赤いのが淫靡に目を引く。美人は美人なのだが、人間世界になじんでいないあやかしみたいだ。それが西部開拓時代を彷彿とさせるカントリー風のワンピースを着ているのだが、妙に似合っている。
如月は真面目だ、と箱崎はため息をつく。次の仕事が始まるまで、まだ一週間もあるので、どうしてもやる気が出ない。
二十代半ばのふたりが営むこの事務所は、サイバー関係のトラブルを引き受けるなんでも屋だ。もともとはサイバーセキュリティコンサルタントをするつもりで始めたものの、ふつうのシステム部を相手にした仕事ではクライアントと意見の対立でケンカになることが多く、犯罪がらみのやっかいな客だけが残ることになった。嫌なことを嫌と言えるように独立したのだから、ふたりは今の状況に満足している。
箱崎が視線を自分のディスプレイに戻すと、新着メールのマークが目にとまった。
「君島さんからメールだ。なにこれ?」
そう言いながら送信元を確認して開く。君島は以前一緒に仕事をしたことのあるフリーのサイバーセキュリティコンサルタントだ。如月姉妹社にとびきりやっかいな仕事を持ち込んでくることが多い。
── 外交研究所の荒垣さんに紹介した。いずれ連絡がゆくと思う。よろしく。依頼する仕事は“民主主義を殺した犯人”を特定する仕事だ。
これだけではなにがなんだかわからない。「民主主義を殺した犯人」っていったいなんのことだろう? それに外交って専門外だ。サイバー関係の仕事なら社名や人名でだいたい仕事の内容の察しがつくこともあるが、外交は全くわからない。あわてて「荒垣 外交研究所」で検索し、それなりに知られた人物で外務省や外務大臣とつながりがあることがわかった。それがなんでうちのような零細なんでも屋に? 思ったところで如月の視線に気がついた。やはり首を傾げてディスプレイの横からこちらを見ている。
「君島さんが外交研究所の人を紹介してくれた」
箱崎が言うと、
「面倒そう」
と即座に返事が来たが、声音は楽しそうだ。君島の紹介してくれる案件はやっかいだが、刺激的で楽しいことが多い。
インターホンが鳴った。箱崎はすぐにパソコンのディスプレイに映ったインターホンのカメラと防犯カメラの映像で来訪者を確認する。中年の男性が若い男性を連れている。
「中年の紳士と若い男性。私のお見合い相手を連れて来た親戚のおじさんという推理も成り立つけど、たった今届いた君島さんのメールで言及されていた相手と考えるのが妥当かな。それにしても直接来るとは思わなかった。アポなしかよ」
箱崎がそう言うと、如月が立ち上がった。
「つまり誰なんです?」
「荒垣外交研究所所長、荒垣大介氏とその部下……のはず」
箱崎も立ち上がり、如月と自分の身体を交互に見る。
「なんでしょう?」
如月が首を傾げる。
「お客さまに会える格好してたかな? と思って確認」
「幸い今日はふたりとも人前に出られる服装です」
如月はそういうと、スカートの左右を指でつまんで持ち上げて見せた。如月はベージュのワンピース、箱崎は黒のパンツスーツだ。仕事をする服装をしてきてよかったと思う。箱崎は仕事が忙しくないとTシャツにジーンズという格好をしていることが多い。なんとなくスーツを着てきたのは運がよかった。
「お茶を淹れてきます」
如月はそう言うとキッチンに移動したので、箱崎はオフィスの入り口に小走りに急ぐ。
「ようこそ、如月姉妹社へ。荒垣さんですね? お待ちしておりました」
作り笑顔で扉を開けると、カメラで見た通りのふたりが立っていた。
ふたりともスーツ姿だ。口ひげをたくわえた中年の紳士は中折れ帽をかぶり、温和な表情で箱崎を見る。もうひとりはつるんとした感じの整った顔の青年で眼鏡をかけている。おそらく自分とほぼ同年代だろう。少し上かもしれない。
「荒垣さんですね。どうぞこちらに」
箱崎はふたりを応接セットに案内する。この事務所は六十平米あるのだが、間仕切りなしで机や椅子、ソファを適当に置いてある。一見すると、引っ越し中にしか見えないが、すでに引っ越してから半年以上経っている。事務所開設以来ずっとこうだ。何度か事務所らしくしようとしたのだが、如月と箱崎の「事務所」という感覚に大きな乖離があるため、折り合いがつかず手を付けられないままだ。
客のふたりをソファに座らせると、ちょうど如月が人数分のコーヒーを盆にのせてやってきた。いい香りがたちこめる。さてはいい豆を使ったな、と箱崎が目を向けると、如月は片目をつむってみせた。
「恐縮です」
年配の男性は目の前のテーブルにコーヒーカップが置かれると、軽く頭を下げた。横の若い男性も「ありがとうございます」と礼を言う。
コーヒーを出し終わると、如月は盆を後ろのテーブルに置いて一礼する。
「如月姉妹社の代表の如月です」
そう言って荒垣に名刺を差し出す。箱崎もあわてて名刺を取り出す。どうもこういう儀式は苦手だ。そして必ず如月の名前の話が出る。「今鹿」と書いて「ナウシカ」。死ぬほど笑えるが、おそらく本人にとってはかなりつらいことなのだ。そんな様子は決して見せないが、こんな名前でひどい目に遭わないわけがない。同じクラスにいたら、自分も絶対ネタにしたと思う。一度、「ナウシカって呼んでいい?」と訊いたら、「いいけど、その前に遺書を書いておいてください」と目を見開いて返された。以来、その話題には触れないようにしている。
「君島くんはさっそく連絡してくれたようだね」
どうやら荒垣は如月の名前を話題にしないことにしたらしい。腰掛けながら君島の名前を出した。さきほど名乗る前に箱崎が荒垣の名前を口にしたから察したのだろう。ゆったりしたしゃべり方だなと箱崎は思う。せっかちな箱崎は、いささか苦手だ。
「はい。ただし、仕事の内容については直接うかがうようにということでした」
箱崎は応えながら、おかけくださいとふたりをソファに腰掛けさせ、自分も座る。
「うん。君島くんにもくわしくは伝えていないからな。諸君らも秘密にしておいてもらえるとありがたい。いちおう、NDA(秘密保持契約書)を持参したので、後で署名捺印してほしい」
NDA? そんなことより仕事の話をしろ。箱崎は荒垣の話し方にいらいらしてきた。必死に自分を抑える。荒垣に問題があるのではなく、自分がせっかちなのはわかっている。君島がメールにあんなことを書いたせいだ。依頼内容が気になって仕方がない。
「かしこまりました」
如月は笑顔で荒垣から NDA を二通受けとる。そんなことは後でいいから、早く仕事を説明してほしい。
「君島さんのメールには、“民主主義を殺した犯人”を特定してほしい、と書いてありましたが、どういうことなのでしょう?」
我慢できずに箱崎は自分から切り出した。
「とある国で民主主義が殺されつつあるというか、もう殺されてしまったようなので、その犯人と目的を調べてもらいたい」