「他の社員がいる目の前で松野から『この人』呼ばわりされたことがあるんですよ」ニヤニヤしながら記者に以前そう語ってくれたのは、某総合商社系のセキュリティ企業の社長だった。
社長としてアサインされて赴任した直後、社内の打ち合わせでそれは起こった。あからさまに新任社長を値踏みし査定してやろうという意図が口調にこめられていた。
ニヤニヤ笑いはまた苦笑いでもあり、困ったなあという感じでもあったが、どこか第三者的に面白がって楽しんでいるような表情がそこに浮かんでいた。
たしか、社長の自分よりもはるかに高い給料を要求するアナリスト(まるで高貴な社会貢献活動でもしているかのようなトーンでそれが行われる)や、会話をしている最中に技術に明るいとはいえない社長を隠そうともせず鼻で笑うペネトレーションテスターの話をしたあとで出てきた話題で、要は「うちの社員はこれだけ尖っているんだ」という自慢であり、それら鬼才異能の人材たちへの誇りと愛情を確かに感じさせる発言でもあった。
その社長は本社の辞令によって、ある日突然、セキュリティの専門企業の、よりにもよって代表取締役を拝命したという。特にセキュリティ領域の経験があったわけでもなく、特段の人脈や知見を有していたわけでもなかった。
尖りに尖ったそんな社員の中で、尖っているだけでなく常識の持ち合わせもないあるひとりの社員から、冒頭の「この人」発言が初期の打ち合わせで出たのだという。
名門の私立校から正反対の学校へ転校したような洗礼だが、言う方も言う方で、非常識なだけでなく命知らずでもある。伝統ある総合商社の世界観においては、本社から子会社に来た社長といえば、徳川家の幕臣が木っ端(規模の大小と関係ない)譜代大名を訪ねたようなものであり、白装束に身を包みでもしない限り、なかなかこんな啖呵切れたものではない。
IT、特にベンチャーの世界では、技術に疎い社長や役員、管理職が、クールで頭の切れる技術者に侮られ愚弄される様を見ることは、そうそう珍しいことではない。
技術こそが事業の付加価値を生み出すのであり、そこでは馬鹿をバカにしないことこそが誠実さを欠く、そういう考え方だ。いじめではなくまじめなのだ。
株式会社野村総合研究所(NRI)の柿木 彰は、2021年4月からNRIセキュアテクノロジーズ株式会社(以後NRIセキュアまたは単にセキュアと本稿では記載)の代表取締役社長に就任することを人事発令で初めて知ったという。柿木もまた、セキュリティ畑を歩んだ経験は持っていなかった。
NRIセキュアは、NRIの社内ベンチャーとして2000年に設立。会社の立ち上げから深く関わったメンバーがこれまで社長を務めるならいのようになっていた。野村総合研究所から社長を迎えるのは今回が初。
本誌はNRIセキュアをかつて何度も取材しており、その文化と技術力を知っている。自ら積極的には語らないスタイルの社長ばかりだったが、4代目社長には大手町オフィスと、Black Hat USAが開催されたラスベガスで二度話を聞く機会があった。本誌は創刊初期にNRIセキュアの協賛企業参画を得ていた時期もあり、どんなに技術者として尖ってはいても、常識ある淑女紳士の集まりであることは自信を持って断言できる。だから名門校から正反対校へのたとえは、この場合、ゆめゆめあてはまることなどないはずだ。
「さて一体どうなったのか。ここから先は会員登録」のような書き方をしたくないので、答を先に明かしてしまう。
柿木は人生の選択を3つか4つ大きく間違っていたら、大学教授にでもなっていかねない、技術者・研究者の側面を持つ人物であった。ナメられるも何も全く逆のリスペクトである。
ということで、良識のある人々で構成された組織では常識的なこと以外起こらないという退屈な事実がまた証明された。
さて、柿木がNRIセキュアの社長に就任して最初にやったことは大きくふたつ。
ひとつは社員・取引先および主要業界関係者と次々と面談・挨拶回りをすることだ。取材時点ではまだ全員の面談や挨拶は終わっておらず続いているようだった。
もうひとつは、なぜ自分がNRIセキュアの社長になったのか、その理由を探し当てること。
「お願いしたい。行けばわかる」
これは、柿木がNRIセキュアの社長に任命された際に取締役から言われた言葉だ。
質問も何もせず柿木は「はい。わかりました」とだけ答えた。説明しなければわからないようならたとえ説明してもわからない。そういう種類のやりとりがここで行われた。
とはいえNRIセキュアの社長室の机の上にその理由が書かれた紙が置いてあるわけでもない。手応えのある、なんならこれから5年10年戦える「理由」を柿木はまず探し出す必要があった。
本取材実施は2021年11月中旬。社長就任から約200日の間、柿木はどんな行動を取り、一体何を見つけたのか。とっぷりと日が暮れた夕方から大手町オフィスではじまったインタビューは、2時間近くに及んだ。
【柿木】順番に言いますと、名前は柿木 彰(かきのき あきら)でございまして、趣味は資料に記載の通りで、ゴルフはお客様とのおつき合いが発端ではじめました。お酒も好きでお客様と一緒に飲んだりします。城めぐりは完全に個人としての趣味です。あとランニングです。
私は人間ドックに行って細く体をチェックするのが好きで、自分のボディ管理をする、数字でちゃんと押さえるのが好きです。ですので、実はスマホの歩数計で、いつも歩数をカウントしている。心拍数も全部スマホで管理しています。体をデジタルでチェックするのが好きというのもあって、ランニングは1日何キロ走ると決めて走っています。放っておくと体質的に肥満になってしまうのでやっています。
経歴についてですが、1987年4月に野村コンピュータシステムに入社しました。翌年「野村総合研究所」と名前が変わりました。最初は証券システム本部というところで野村證券の総合口座という、株をお預かりする、銀行と同じようなメインフレームの管理システムをやっていました。いわゆるアプリケーションエンジニアという分野でした
――開発に従事されていたのですか?
はい、そうですね。その後、野村総研の開発管理部 技術設計課で、当社でいうとテクニカルエンジニアの分野でやっていました。ですので、最初はアプリケーションエンジニアだったんですけれど、途中で人事異動でテクニカルエンジニアに変わりました。
その後1993年11月に、システム生産技術部 生産技術一課という課ができました。何の変哲もない名前なんですが、実は当時の役員が鳴り物入りで作った課でして、いわゆる「新事業を創造する課」として、会社からちょっと変わった人を集めてきたんです。
――面白そうですね。
当時のNRIの経営者って色々奇抜なことをするんですよ。生産技術一課といいながら「何してもいい」と言われましたね。
――何を生産してもいいと?
「何をやってもいいから、とにかく新しいことをやれ」と言われた。私は当時、野村証券のインフラ担当のエンジニアだったんですけれど、そこから私が一人、それからネットワークをやっているところから一人、大手コンビニエンスストアのアプリケーションをやっているところから一人など、うちの主要顧客や主要事業の部署から一人か二人ぐらい集めて、課員が10名ぐらい。偶然なんですがその時にNRIセキュアの創業者の眞下(ましも)も同じ課員なんですね。
2000年にNRIセキュアがスタートしましたが、1995年に社内ベンチャー制度でNRIセキュアの前身を立ち上げたのが眞下で、初代CTOです。彼はエンジニア色が強く、経営はできないので、社長は寺田さんという方がやられた。彼も生産技術一課。あと今もNRIセキュアにいる菅谷(すがや)っていう研究主幹も同じ課だった。
それぞれ「何やってもいいから」と言われて、やって、それぞれ持ち帰った。それでベンチャーを立ち上げた人もいれば、私の場合はまた再び野村證券に一回戻ったんですよね。そこで研究したテクノロジーを使って、野村のBPRシステムという、当時で言うと「ダウンサイジングシステム」、メインフレームからダウンサイジングするシステムを作りました。
というように、非常に印象的な、特徴ある課が生産技術一課です。そこからみんなバラバラになったけれど、それぞれの場所で、いろんな会社を作ったりプロジェクトを立ち上げたりした。
――生産技術一課に抜擢された理由は何だったと思いますか?
当時はなぜだか、よく分からなかった。
――変わり者だったんですか?