もうひとつの技術者の楽園か ~ 神奈川県警 サイバー犯罪捜査官 インタビュー | ScanNetSecurity
2025.02.28(金)

もうひとつの技術者の楽園か ~ 神奈川県警 サイバー犯罪捜査官 インタビュー

 楽園とまではいかなくてもセキュリティ技術者として勤めやすい環境であるかどうかは、技術に理解のある上司が存在するかどうかと、組織の規模(神奈川県警は 70 名)、この 2 点に大きく左右されると考えられる。

製品・サービス・業界動向
神奈川県警サイバーセキュリティ対策本部(撮影 2023年)

 東京理科大の大学院で物性物理を学んだ小台 進(仮名)は大手企業のグループ会社に就職した。就職氷河期後期としては上出来だった。小台はインフラエンジニアとしてサーバの管理に明け暮れる 8 年間を過ごした。

 22 時より前に帰宅できたことはほとんどなく、インフラエンジニアの宿命として午前 0 時を過ぎた深い時刻に呼び出しがかかることも時折あった。かといって仕事に猛烈に不満があったかといえば必ずしもそうではない。大学院で博士課程にまで進んで学者の道を目指すことをあきらめた時点で小台の夢は一度小さく挫折していたのであり、民間に就職して生活のために体を動かすのはその後のオマケのようにも思えた。

 30 歳を過ぎたある日、小台は時間を工面しながら格闘技(柔術)の道場に通い始めた。社会に出てまだ何も成し得ていないのではという焦燥感と、仕事の中で自分がすり減って消えてしまいそうな毎日への小台なりの抵抗だった。中高は吹奏楽部だった小台だったが、思いのほか柔術の習得にセンスを発揮した。道場に通うことが生活のメリハリの一つになる。

 その道場でたびたび出会う、とある先輩の姿に小台は疑問を持つようになる。小台が何曜日に道場に行ってもほぼ必ずその先輩は練習していた。年齢的に見て社会人であることは間違いなく、もしそうならこの人はいったい何の仕事をしているのか。

 やがてその人物とうちとけ親しく会話をするようになった小台は、その先輩が神奈川県警の警察官であることを知る。「警察っていいな」と小台は思った。

 年長者の懐に飛び込むのが苦手ではない小台は、やがてその先輩の家に招かれるまでになる。そこで目撃した光景に小台は再度驚く。専業主婦の奥様と 3 人のお子さん、そして一戸建ての家。小台は思った「俺も警察官になろう」と。わかりやすい男である。

 当時小台はすでに結婚して子供も生まれていた。子供の運動会にも出席できないような、家庭を顧みることができない仕事詰めの日々は安定して続いていた。自分の子供世代に今の仕事を通じて何が残せるのか、どんな社会貢献ができたのかできるのか、五里霧中、皆目見当がつかない日々であることに変わりはなかった。

 ある日小台は、神奈川県警がサイバー犯罪捜査官の募集をしていることを知り、33 歳で応募して落ちた。

 だがめげる男ではない。すぐ翌年再度応募し 2 度目で合格した。余談になるがこれまで本誌は合計 6 人のサイバー犯罪捜査官にインタビューする機会を得たが一度落ちて二度目の受験で合格したという例は他にもあった。裏を取りようがないのだが「本気度」を測るといった意図もあるいはあるのかどうか。

 「セキュリティ対策が行われることで次々と新しいサイバー犯罪の攻撃手法が生み出されていくため、サイバー犯罪捜査の現場ではその都度ゼロから調べ直して勉強することになり、勉強することや調べることがそれこそ無限にある。神奈川県警はそのために必要な裁量を持たせて自由にやらせてくれる」嬉しそうにそう語った小台の姿は、あたかも警察という組織の中にもう一つの「エンジニアの楽園」があるとでもいうかのようだった。

 「エンジニアの楽園」とは、本誌がとあるセキュリティ企業を取材した際に出てきた言葉で、エンジニア、特にセキュリティエンジニアが生き生きと輝いて活躍できる職場および職場環境全般を指す概念である。

 技術者が生き生きと働く。言うは易しだがこれが意外に難しい。

 一般に資本主義経済下では、100 点やそれ以上の才能や素養を持つ優秀で尖ったエンジニアは労務管理しづらいため、むしろ企業側は、定時に出社して出社時には大きな声でおはようございますと頭を下げ、命ずる仕事を黙々とこなす 60 点の技術者の方を経営者は圧倒的に好む。人件費も 60 点並みで済む。ウオークマンのようなイノベーションをなそうなどと志す経営者はまずいない。そもそも日本の経営者のマジョリティは、メルカリのようなごく一部をのぞいて、デジタル技術と技術者を、自分が理解できないというだけの理由で軽蔑しバカにしてさえいる。技術者がファミコンで遊んでいるのとそれほど大差ないとみなしている経営層もいるのではないかと思われる。もちろんここでいうファミコンとは 1983 年 7 月 15 日発売筐体である。

 好奇心が強く勉強し天井知らずに成長する伸び代を持つ技術者が、こういうコミュニケーション能力と協調性の高い 60 点技術者を求めている企業に入ってしまうと双方が地獄を見ることになる。会社は労働生産性が落ちるだけで済むが、技術者の方は心身ともに生涯残るダメージを受ける。

 しかし、パーセンテージが低いものの、100 点や 120 点、場合によっては 1 億点のスコアを叩き出すようなエンジニアを受け入れる度量のある組織が存在し、そういった会社組織と技術者の理想的な相互作用を本誌は「エンジニアの楽園」と呼んだ。すなわち、エンジニアの楽園とは、まだそれが実現していなかった時代のアメリカの公民権運動などと同様、そうでは全くない現実の裏返しであり、どこかにあるものというよりは、実現が難しい目的であり理想である。

 いみじくも小台が語った通り、サイバー攻撃とは日々技術や手法が進化しビジネスモデルも革新されていく領域である。攻撃側がそうだから守る側も同様に革新と進化を同水準で続けないと攻撃側に追従できない。

 追従なんてケチくさい。サイバー犯罪者を出し抜いてみせるためには技術者のクリエイティビティをイチかバチか野放図に解放する必要がある。すなわち好きなことを好きなようにやらせなければならない。これが楽園成立の本質である。1989 年にランサムウェアがはじめて開発された当時は、明らかに誰の目にもイケてない攻撃手法だった。しかしランサムウェアと仮想通貨を組み合わせるという誰が考えたのかわからないがビジネスモデル上の天才的なイノベーションがサイバー犯罪史を変える大きなエポックとなった。このようにサイバー攻撃の進化は、生産計画やマイルストーンといった予測可能な発展ではなく、むしろ現代アートのような予測不可能な斜め上の飛躍と進歩が行われる。

 だから守る側も「好きでたまらない」ことで生まれる集中力等々、ときに近代労働法的な管理の枠外に逸脱する。「人間の労働力」もっと言って「人間」は、資本主義が作り出した最も優れた「商品」だが、技術者の仕事はときにその商品に求められる規格の枠外にはみ出す。

 小台はインフラエンジニア時代にはさしたる興味もなかったプログラミングを、神奈川県警サイバー犯罪捜査官の職を拝命して現場に入ってから新たに始めたという。バイナリデータを可視化するプログラムや、ソフトウェアのバージョン管理を行うプログラム(犯罪行為が当該ソフトウェアのどのバージョンで行われたかは有罪を立証する証拠固めの際に極めて重要となる)を開発して、県警内で表彰を受けもした。

 取材時点の 2024 年 7 月時点、採用から 5 年で小台は警部補にまで出世した。神奈川県警のサイバーセキュリティ対策本部は計 70 名の組織であり、神奈川県警のサイバー犯罪捜査官は 7 名だという。

 昨年紹介した通り神奈川県警サイバー犯罪捜査官には留学制度があり、サ捜官(さそうかん:「サイバー犯罪捜査官」の神奈川県警における略称)は民間企業への研修のほか、1 ヶ年間情報セキュリティ大学院大学に在籍して研究を行い論文を書くケースもある。優秀だった小台は、本人の希望もあり香川大学での共同プロジェクトにも参加し、その成果となる論文は IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers:米国電気電子学会)に採択もされた。

 取材中、小台の「仕事が楽しくて仕方がない」という雰囲気が記者に伝わってきた。今回の神奈川県警に限らず、警察のサイバー犯罪捜査官を何人もインタビューしてきて思うことをいくつかポイントとして挙げると、次の三つになると思う。

 一つは警察のサイバー犯罪捜査官の仕事が、営利企業ではない場所でサイバー犯罪の技術について研究できる、数少ない場所であるという点である。民間企業と違って、それを製品やインテリジェンスに落とし込んで、客を探して売りつけるというプロセスがない分、よりピュアに技術と接することができる。

 二つめは、技術者が問答無用で一定の尊敬を得られる場であるということだ。2024 年現在、デジタル技術が全く関わらない犯罪など想像できない。小台警部補が生ログをエクセル形式で可視化するプログラムを開発したとき、プログラム自体の技術水準はなんら高度なものではないにも関わらず、現場のおっさん刑事たちは目を輝かせて小台を尊敬の目で見つめたに違いない。金を儲けることではなく犯人検挙や犯罪の立証に寄与する証拠固めに役立つ貢献が純粋に評価され報われるのである。

 三点目として「正しいことをすればそれが評価される」という 2024 年現在の日本の民間企業では滅多に見られないような当たり前の条件が、当然ながら警察の中には存在する。これが法執行機関という仕事だとも思う。

 いいことばかり書いたが、もちろんこんな良いことずくめの職場では必ずしもないだろう。卒業するだけでも大変な東京理科大で大学院まで卒業した秀才が、縦割りの体育会系組織に奇跡的に適応した特殊ケースに過ぎないかもしれない。セキュリティ技術者がサイバー犯罪捜査官に応募する際にエベレストのようなハードルとなる「柔剣道必須」と「交番勤務」(各都道府県によって異なる)のうち小台は、柔剣道を警察官になる以前から楽々とクリアしていた(2024 年時点で神奈川県警のサイバー犯罪捜査官は、採用選考に柔剣道や交番勤務は無く、昇進にあたっても交番勤務は必須ではない)。

 また、都道府県警によってサイバー犯罪捜査官の仕事や処遇はかなり違う。おそらく有名なサイバー犯罪捜査官の退職エントリーのような都道府県警も少なくない可能性もある。というか、本誌 ScanNetSecurity に向こうから取材依頼が来るようなところが、むしろ例外的に「サイバー犯罪捜査官にとって比較的働きやすい職場」なのかもしれない。

 「楽園」とまではいかなくても、セキュリティ技術者として勤めやすい環境であるかどうかは、技術に理解のある上司、すなわちGMOイエラエにおける牧田誠のような人物が存在するかどうかと、組織の規模(神奈川県警は 70 名)、この 2 点に大きく左右されると考えられる。

 実は本記事では紹介しきれなかったが、今回の取材では、もう 1 人神奈川県警サイバーセキュリティ対策本部のキーパーソンが存在する。彼、真田 史朗(仮名)は「司法警察職員(警察官の正式呼称)」ではなく「技術職員(専任技幹)」という技術アドバイザー的役割で神奈川県警に奉職し、「サイバー犯罪捜査」ではなく「ハイテク捜査」と言われた時代から、技術の重要性を上層部に理解させることに数十年にわたって骨を折る日々を積み重ねた。

 その真田のもとに小台が社会人採用のサイバー犯罪捜査官として配属され、小台が、真田自身が学んだ東京理科大の後輩であることを知ると、それまで以上に真田はサイバー犯罪捜査官が働きやすい現場の環境作りに力を尽くすようになった。

 恐らくこういう真田のような人物に自分自身がなろうとする気概を持てるかどうかがひとつのわかれ目になると思う。真田に具体的年齢は尋ねなかったものの定年まであと 20 年 30 年もあるという感じではなかった。小台と彼の同僚たちの出番である。

 取材の終盤になって記者は小台警部補に「 IEEE に論文が載ったのならば、いずれ Black Hat USA にも論文を応募して講演してください」と半ば冗談半ば本気で無茶ぶりをしてみた。すると「CODE BLUE にはいつか出たいとは思っていますが Black Hat USA は…」という少々たよりない答が返ってきた。

 「いや、CODE BLUE は今年か来年にでも当然論文採択されて講演してください。それとは別に Black Hat USA であなたが講演すれば、給料が安いだのなんだの、こんなんじゃたいした人材が集まらないとディスられてばかりのサイバー犯罪捜査官の現状を小台さんの腕一本で変えることができますよ」そんな無茶すぎる激励をして警部補とは別れた。

 世界から 1,000 本を超える高水準の論文が集まり、審査倍率 11 倍、世界最高峰のセキュリティカンファレンス Black Hat USA にそもそも法執行機関が登壇する例は少なく、たまに米 FBI などが民間企業との共同研究成果などを発表している程度。そこに日本の警察からも登壇者が出たら大きな一歩になることは間違いなく、そんなことが起これば本当ならメルカリやデロイト、EY に入って 20 歳代で年収数千万得ていたはずの人材が、まかり間違って警察に入ってしまうような珍事も起こりうるかもしれない。こんな夢のようなことが絶対に起こらないとは言えないと取材で感じた。

 今年 2024 年の神奈川県警のサイバー犯罪捜査官の応募はすでに終了しているが、もし来年 2025 年以降に応募して入ってみたところ実態がこの取材記事と全く違っていたとしたら神奈川県警を糾弾(きゅうだん:強く非難すること)する記事を本誌 ScanNetSecurity が書きますので該当者はお気軽にご連絡ください。



2024 年 9 月 11 日 追記
 神奈川県警察 サイバーセキュリティ対策本部から本記事の下記の事実に基づく報道に関して、

 「セキュリティ対策が行われることで次々と新しいサイバー犯罪の攻撃手法が生み出されていくため、サイバー犯罪捜査の現場ではその都度ゼロから調べ直して勉強することになり、勉強することや調べることがそれこそ無限にある。神奈川県警はそのために必要な裁量を持たせて自由にやらせてくれる」嬉しそうにそう語った

 サイバーセキュリティ対策本部 管理官 大越紀之 警視から 2024 年 9 月 5 日、 “ インタビュー取材の中で(小台警部補)本人も上記内容の発言はしておりますが、小台もあくまで警察組織の一員であるため、何でも自由にできる訳はなく、あくまで組織の決定に基づき業務を推進することとなります。今後、サイバー犯罪捜査官をめざす方々が貴殿の記事を拝読した際に誤解を与える可能性もありますので、できましたら上記の内容を「…無限にある。神奈川県警はそのために必要な研修や講習を受講させてくれている。」と、あくまで当方からのお願いとして、訂正していただければ幸いです ” 旨の連絡をいただいたので、本誌の編集方針である両論併記としてここに掲載します。

《高橋 潤哉( Junya Takahashi )》

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