新しい道具が登場すればそれを利用した新しい犯罪が始まる。特にサイバー空間ではそうだ。かつて「電脳コイル」はアニメの世界で AR が日常に溶け込んだ生活と犯罪を描いた。セカイカメラやグーグルグラスという先人の失敗を踏まえて現れたポケモンGO はお手軽にしてわかりやすく、あっという間に普及した。定着するのかはわからないが、これから同種のサービスは、火のつき始めた VR と相まって増えてくるだろう。では、その時、どんな犯罪が起こるのだろう?●現実からの物理的介入による犯罪の可能性現実世界とヴァーチャルの融合は素晴らしいが、犯罪もクロスオーバーしてくることを意味する。すでに現実のものとなったように、ヴァーチャルに夢中になって油断している人間から金品を強奪する犯罪はこれからも増加の一途だろう。衝動的な犯行も起きやすくなる。ゲームセンターで対戦格闘ゲームの乱入が華やかだった頃は、ゲームの戦いからリアルファイトに移ることも珍しくなかった。当然、あれと同じことが街のなかで起きる。たとえばポケモンGO ではジムと呼ばれる場所の周囲にプレイヤーが位置して戦うことになるから、誰が戦っているのかとてもわかりやすい。自分のポケモンがジムを守る側の時なら戦っている相手を見つけ、殴り倒せば勝利を確実なものにできる(守る側は自動的に戦闘する)。筆者はジム近辺でプレイしている時に、「私のポケモン倒したのはあんた?」と訊ねられた。プレイ中に話しかけるのはマナー違反のような気もするが、ここは天下の往来であり、立ち止まっている人間に話しかけて悪いと言い切れない。だが、少なくともプレイの邪魔になるのは間違いないし、正直言って怖い。その他にも、電波をジャミングしたり、物陰や室内からエアライフルで撃ったり、誤った GPS 電波を流したり、できることはたくさんある。ポケモンGO では収集したポケモンやアイテムのプレイヤー間での交換はまだ実装されていないが、実装されればカツアゲの対象になるだろう。また、現実の空間に生身をさらしているのだから、いわゆる身バレの可能性は非常に高い。プレイしているのを見かけて後を付ければ簡単に住所や名前がわかってしまう。すでに Ingress で名前や出没地点からプレイヤーを特定する技は編み出されているので、普及すればするほど特定技術は精緻化してゆくだろう。巷では、レアポケモンの出現情報が交換されているが、トレーナーの情報が交換される日も遠くないような気がする。かわいい女性トレーナーからカツアゲしやすいおっさんトレーナーまで、どこのポケステやジムに何時頃出没するかの情報を共有する。その時間の前後に、ジムバトルを観察していて、そのトレーナーのポケモンが新しく置かれたら、トレーナーが現れたと判断して直行すれば補足できる。ごていねいにポケモンGO のプレイを生放送している者だっている。特定してくれと言わんばかりである。● AR 世界への介入による現実の危険AR 世界になんらかの介入を行って、現実の犯罪に結びつけることも増えるだろう。たとえば、GPS を狂わせ、任意の座標にいると相手を誤認させて、プレイを妨害する。集客効果のあるAR世界のイベントを発生させて、人を集めて犯罪を行うことも可能だ。ポケモンGO では、ルアーというポケモンが集まってくるアイテムを設置すると、それを見つけた他のトレーナーも集まってくる。当然、ポケモンを捕まえることに熱中しているから、犯罪の餌食になりやすい。ルアーの設置場所を時間差で移動することで、トレーナーを安全な場所に設置されたルアーからじょじょに危険な場所に誘導することも可能と思われる。ハッキングにより AR に任意の変更を加えることもあり得る。「攻殻機動隊」では、義体化した登場人物の「目を盗む」(ハッキングして視界を奪うこと)行為が行われていたが、同様のことが AR でも起こる。いまのところは DDoS 攻撃でサーバーを落とすくらいしか報告されていないようだが、今後広まればより深刻なハッキングが行われるようになるだろう。特に経済活動に直結するようになれば、電脳コイルで描かれていたように AR の中にアンダーグラウンド空間を作るようなことも考えられる。● AR と現実の融合による危険 テトリス効果テトリス効果とはゲームのやり過ぎで現実世界に、ゲームのキャラクターやアイテムの幻覚が見えることである。テトリスのやり過ぎで、現実の風景の中にテトリスのブロックが見える症状から名付けられた。電脳コイルの電脳メガネやポケモンGO は、現実の世界の中にキャラクターやアイテムや存在しない建築物を表示する。素のままでテトリス効果を実装しているようなものだ。やりすぎるとどうなるかは想像に難くない。現実と AR 世界の区別がなくなり「スマホなくても、ポケモンGO できるんだぜ」という「達人」が続出しかねない。そこまでいかないまでも、AR のキャラクターやアイテムに過剰な思い入れをする人々は増え、それが失われた時の感情的な損失も大きなものになるだろう。●ネットはインフラではなく、現実そのものであるここでひとつ哲学的な問題がある。インターネットが普及し、リアルの友達よりネットの友達の方が多い人は珍しくなくなった。日常的に会話する相手もネットを介していたりする。スマホを常に持ち、メッセージや画像を交換し、ゲームを一緒に楽しむ。帰属する一次集団がネットになった時、生身の視覚に映る現実は所属する場所ではなくなる。AR の世界の方が帰属する世界に近い。ネットの生放送を見ればリアルの知人や世界ではなく、ネットを介した相手とつながることを求める人間が多いことに驚くだろう。彼らは登下校、通勤、食事、ヒトカラ、家族の団らん、あらゆる場面で生放送を通じて人とつながっている。第一次集団がネットになった時、人の行動や意識を支配する現実もまたネットの中になるのだろう。いまを生きる多くの人々の心は、ネットの情報を投映しないリアルの世界には帰属していない。そうなると AR のない現実は現実ではなくなる。AR は拡張現実のことであるが、かつては物理的世界が「現実」でそこにネットを組み込む拡張がなされた。今はネットが「現実」でそこに物理的世界を組み込む拡張が行われていると考えた方が実態に近いのかもしれない。一田 和樹(いちだ かずき)11月6日 東京都生まれ。サイバーミステリ作家・評論家。バンクーバー在住。シンクタンク、ISP 常務取締役、コンサルタント会社社長などを経て2006年に早期引退。2010年「檻の中の少女」で第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。コンピュータ犯罪をテーマにしたミステリ小説を中心に著書多数。近著に、高校生ハッカーの成長を描いた「女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険 」や、原子力発電所へのサイバーテロを描く「原発サイバートラップ: リアンクール・ランデブー」などがある。2010年から続く本誌の長期連載小説「サイバー探偵 工藤伸治の事件簿サーガ」の第7 弾となる最新シーズンを現在準備中。