~小学校の暴れん坊からiMacによる復活へ
アップルからの追放
当初、ジョブズとスカリーは強力なチームだった。1983年10月のBusinessWeekの表紙では「アップルのダイナミックデュオ」と呼ばれている。だが長くは続かなかった。
Macintoshが華々しく発表された直後、同製品がジョブズの予測したほど、あっと言う間のヒットとはなりそうもないことが明らかとなった。128KBのメモリ割り当てに悩まされ(これは当時としても少なかった)、さらに拡張性を欠き、ハードディスクが無いことや、その他の制約から、同製品は多くのソフトウェア開発者を惹きつけることができなかった。
Macのグラフィカル・ユーザー・インターフェイスが、開発者コミュニティにとって馴染みのないものだったことも災いした。Macは投資する価値があると考える、若く、精力的な開発者、ビル・ゲイツもいはしたのだが。
Macのセールスはふるわなかった。伝えられるところによれば、ジョブズは自分が長年暖めてきた計画が明らかに頓挫したことで、自分以外の全員(そこにはスカリーも含まれた)を非難したという。
彼はまた、年次総会中、有望な製品を無視することで、かつての友人スティーブ・ウォズニアックと、まだ同社の収益の大半を稼ぎ出していたApple IIチームの両方を遠ざけるという戦略的ミスも犯した。
ウォズニアックはアップルを辞職した。それも騒々しく。iConによれば、ウォズニアックは辞職する際、ジョブズとその支持者に食ってかかった。「先週株主総会を開催したが、「Apple II」という言葉は一度たりとも言及されなかった」と。ジョブズはアップルで友人を失いつつあった。
ジョブズは、陰でスカリーをクビにしようと動くという戦略的ミスも犯した。スカリーやその支持者との争いに起因するこの陰謀は、複雑で入り組んでおり、語りぐさになっているが、最終的にはスカリーが勝利した。
1985年5月末、スカリーはジョブズが会長にとどまることは認めながらも、ジョブズをMacintosh部門の統括責任者から解任し、同社の日常的な経営的役割を与えないよう、アップルの取締役会を説得した。ジョブズはスカリーが支持を撤回したことを、「誰かに腹を殴られ、息ができなくなった」ときのようだと語っている。
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ジョブズとジョン・スカリー おそらくまだ互いに会話があった頃
6月1日、「アップルの共同設立者ジョブズが降格」という記事で、San Jose Mercury Newsは、アップルはジョブズが「製品イノベーションと戦略における、よりグローバルな役割」を引き受けると語ったと報じている。
「降格された」ジョブズがヨーロッパでしばらく過ごした後、クパチーノに戻った時、オフィスを出て、彼が「シベリア」と名付けた別棟に移るよう言われた。そこで彼は次の手を思案した。
シベリアへの追放期間についてジョブズは、「よく森へ長い散歩にでかけ、あまり人とは話をしなかった」と語った。しかし次に彼は、最終的にNeXTとして知られるようになる企業を設立するため、アップルの上級エンジニアチームを密かに集め始めた。
1985年8月15日、アップル株はその歴史上かつて無いほど落ち込み、(株式分割が行われ)終値で1.8125ドルをつけた。1985年9月、アップル経営陣とのさらなる内紛を経て、ジョブズは辞任する。
1986年の前半には、ジョブズは1株を残し、全てのアップル株を売却した。彼が1株残したのは、同社の年次報告を受けとり続けるため、と言ったとされている。
彼の追放を報じたMercの同記事には、こうも書かれている:「1月現在で、ジョブズはまだ11.3パーセントのアップル株を所有していた。金曜にアップルが1/4ダウンし、17 3/8でクローズした時、これはおよそ1億2000万ドルの価値があった。」2011年1月現在、アップルの時価総額が3150億ドルあたりで上下していたときには、11.3パーセントのアップル株はおよそ356億ドルの価値があった。
2010年10月20日のBloomberg Businessweekのインタビューで、ジョン・スカリーは言っている:「今考えると、そもそも(アップルの)CEOとして雇われたのが大きな間違いだった。」(原文)
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(翻訳:中野恵美子)
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