そこまで話して、オレは大事なことを忘れていたのに気がついた。「オレはまだ現場に行ってない。関係者の話も聞いていない。うっかりしてた。変な状況に気を取られて基本を忘れてたぜ」
「ひとりずつの情報をどっかに売っていたのかもしれません。ネットで電話番号や職場、住所を調べる怪しいサービスがあるじゃないですか。ああいうのの隠れた協力者になっていて、頼まれると社員データを検索して、ヒットしたらその人の情報を売るんですよ」
あるはずない、と思わず言いそうになったが、可能性を否定はできないことにすぐ気がついた。オレは、しばらく絶句した。
大島自身は物理的に離れた子会社にいたためアリバイが成立している。社内サーバーが再稼働する前に帰宅するという念の入ったアリバイだ。完璧すぎて、逆に怪しさ満載なのだが、このアリバイは崩せないような気がする。
ふたりの内緒の相談が終わると、大島は大量のデータと書類を持ってきた。オレはそれを抱えR式サイバーシステムを出て、自宅兼事務所に戻って状況を整理してみた。
「ちょっといいですか?」沢田は、もみ手で作り笑いを浮かべた。オレに訊かせたくない相談があるというジェスチャーのつもりだ。
沢田は、オレのエージェントだ。主な仕事は自分の手に負えないサイバーセキュリティ案件をオレに押しつけ、オレの出した見積もりを二倍以上に水増しすることだ。
まんまとしてやられたとしか言えない。社内の個人情報を内部の人間が漏洩させたなんていうしょぼい事件に、2,000人以上の容疑者を用意した時点で相手の勝ちはほぼ確定だ。
大島の言葉が終わる前に、オレの横に笑顔で腰掛けていた沢田が机に両手をついて頭を下げた。そして大声で謝る。「あっ! すみません! 以後気をつけます!!」
技術的な追跡が無理となれば、オレの出番だ。犯人をうまくおびき出し、罠にはめて捕まえる…という活躍を期待して呼ばれたと思うのだが、どうも今回はそうもいかないようだ。
ここはR式サイバーシステム社の会議室。ぬるい会社だからリピートオーダーがあるんじゃないかと期待していたが、本当にそうなった。しかも今回は部長自ら出てきた。グレードアップしてる。喜んでもいいはずだが、思ったよりもやっかいな案件なので手放しでは喜べない。
インターネットは巨大な昏い海だ。悪意も善意もまとまりのなく漂っている。だが、混沌の中にひとたびファネル(漏斗)が生まれれば、そこに悪意が集積され濃縮され、そして思いもよらない形でリアルを浸食しはじめる。
「工藤さんみたいなセキュリティ専門家はもちろん、情報システムやICT系研究開発に携わるプロの方々にも必須の情報源なんですよ」
「なるほど! わかったぞ、セキュリティに必要なもうひとつが」
「そのメール、標的型攻撃の疑いあり!」
「ある会社から仕事の依頼が来た。でっかいビルの大会社だ。内部犯行による情報漏えいか、はたまたDDoSの脅迫でも受けたか。と、思いきや…」
「今回のオレの仕事は、ここまででいいんだよな。あとでレポートと請求書を送る。このクラスタ野郎をどうするかは、あんたたちで勝手に決めてくれ」
正解だ。額から汗がぽたぽたたれてきた。私は家に帰りたくなった。こんな風に責められるのは好きじゃない。やり直したい。
「し、しかし壊れたPCの持ち主の子供をそんなに都合よく見つけられるものですか?」川崎が思いきり間抜けなことを訊いた。
「あんたは頭がいい。オレが最後に悩んだのは、そこだ。」
やられた、と思った。メールまで確認されていたのか。バカが、なぜ消しておかない。
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