「裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬」柳井 政和(ブックレビュー) | ScanNetSecurity
2024.03.19(火)

「裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬」柳井 政和(ブックレビュー)

「コードを一目見て分かりました。あれは、真面目に仕事に取り組んできた人のコードです。<中略> 我流で、裏社会で活動してきた人間のものではない。社会の歯車として、コーディング規約をきっちり守りながら、業務をこなしてきた労働者のものです」

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「コードを一目見て分かりました。あれは、真面目に仕事に取り組んできた人のコードです。<中略> 我流で、裏社会で活動してきた人間のものではない。社会の歯車として、コーディング規約をきっちり守りながら、業務をこなしてきた労働者のものです」

本書の探偵役である鹿敷堂(かしきどう)桂馬のセリフだ。全く同じ感想を、この小説に抱いた。本書はサイバーミステリという新しい分野の小説であるが、その書き方はきわめて堅実である。サイバーではあるが、誰にでも読みやすい小説に仕上がっている。おそらく作者は、とても真摯に自分の仕事に向き合ってきた方なのであろう。その姿勢がそのまま小説に現れている。

本書は、 第 23 回松本清張賞で最終候補となった作品を書籍化したものである。物語の主人公は、「コードエージェント」という人材紹介会社社長の安藤裕美。創業以来、順風満帆に事業を拡大してきたが、ある日、思いがけないトラブルに巻き込まれる。

過去に紹介したプログラマーが、その会社のデータを暗号化し、解除してほしければ身代金を支払うよう要求してきたのだ。その会社は事件を表沙汰にせず、秘密裏に解決しようとしていた。相談を受けて独自に事件の調査を開始しようとする安藤に、「コードエージェント」の出資者はひとりの人物を補佐につける。鹿敷堂桂馬。無表情でやる気のなさそうな男だったが、行動を共にするうちに安藤はその慧眼と人間観察力に驚く。

ふたりは IT産業の裏側とそこに渦巻いている人間の欲望と憎しみを目の当たりにする。

一読して、愚直なまでにていねいにきっちりとわかりやすく描かれているところに好感を持った。登場する人物ひとりひとりについて、みっちり書き込んである。昨今の小説でここまでオーソドックスに登場人物の紹介をしているものは少ないような気がする。特に主人公の心の動きや反応はとてもリアリティがある。

物語も時系列で進んで行くので、これもまたわかりやすい。冒頭に印象的なシーンを持ってきそうになるのをこらえて、物語の主軸となる主人公のキャラを書き込むところからスタートしている。

サイバー犯罪という最新のトピックスを扱いながらも、その裏にある変わらない人間の欲と愛憎を軸に物語は展開する。それは IT産業の裏の真実であり、ベンチャーあるいは中小企業経営者が直面する現実そのものである。

どこからともなく現れる裏社会の住人たち、得体の知れない投資家、意思疎通の苦手な技術者たち、 IT 専門学校の実態、内部犯行の落とし穴……私自身も IT 関係の会社経営に携わっていた期間が長く、投資家やベンチャー企業、 IT ゴロと接点があったので、「 IT 産業あるある」がいっぱいで昔を懐かしみながら読んでしまった。妙に親近感が湧いた。

なんだかんだ言って、 IT 産業、特にネットベンチャーは東証マザーズ第一号上場のリキッド・オーディオ・ジャパンの頃から裏社会とは切っても切れない関係があるし、まっとうな IT 技術者のキャリアパスも確立されていない。表社会で行き場がなくなれば、裏に行くしかない。

そのうえ世界的に需要の切迫しているサイバーセキュリティ技術者を薄給でこきつかっているありさま。外からは時代の先端のように見えるのに、中にいると裏社会へのドアを持った前近代的な労働集約産業なのだ。

本書では IT 技術者の置かれているこうした厳しい境遇が紹介されている。読んだ方の中には極端な例だと思う方がいるかもしれないが、決してそんなことはない。 IT 産業、特に技術畑に身を置いている限りは、いつでも誰にでも起こり得ることなのだ。なにかのきっかけで、身を持ち崩して裏社会の住民になってしまう。

そうした境遇に置かれた者たちの生々しい生き様が主人公たちの調査によって、明らかになってゆく。単純な金ほしさの犯行ではない。

登場人物はじゃっかんのデフォルメがあるものの、リアルに会社にいそうな人物ばかりで身につまされる描写も多々あった。技術者の経歴や境遇はこれでもかというほどにくわしく書かれており、業界や技術を知らない者にも彼らの置かれている現実がよくわかるようになっている。

とことん堅実に物語と向き合って仕上げている。かといって真面目一辺倒でもない。なんでもありのサイバー犯罪者に対抗するためには、きれい事だけではすまない。サイバー空間では、「攻撃者絶対有利」の原則がある上、証拠を隠滅しやすいため、犯人であることを証明するのはきわめて難しい。そこで必要になるのが、秘密の奥の手と騙しとはったりだ。

本書でもやはり主人公たちは最後の最後で奥の手を使わざるを得なくなる。役員を含めた社員全員の身体検査(借金や自己破産などの調査)や、舌先三寸で相手を陥れるソーシャル・エンジニアリングなど鹿敷堂桂馬の打つ手に、「これこれ、そうやるよね」と、拙著である君島シリーズや工藤伸治シリーズを思い出して、手前味噌ながらひとりで何度もうなずいてしまった。ネタバレになるので、くわしくご紹介できないのが残念だ。

この本を読むだけで、 IT 産業の裏知識をひととおり垣間見れるようになっており、裏入門書にも適していそうだ。

瑕疵ではないが、気になったのは、登場人物にほとんど悪人がいないことである。他のサイバーミステリでも、悪人がほとんど登場しないものが少なくない。作者の好みなのか、読後感をさわやかにするためなのか、それとも最近のはやりなのかはわからないが、悪人好きの私としてはちょっとだけ物足りなかった。ただ、多くの読者にはこの方が読後感がよいであろう。なお、悪人はいないものの、人間関係に難のある人はたくさん登場する。

登場人物が限られているため、犯人は比較的早い段階でわかる。そのための材料も提示されており、論理的に結論に至るように組み立てられている。動機(ワイダニット)についても作中でじょじょに明らかにされてゆく仕掛けになっている。

一番のどんでん返しは謎解きよりはラストのオチであろう。正直、最後まで救いのないオチになるのかと心配しながら読み進めていた。犯人には犯人の過去と理由があるのだが、道を踏み外した以上、二度と表の社会に出てくることはできずに朽ちてゆくしかないのか……しかし……なるほど! と膝を打つ爽快なハッピーエンド(手放しではない、ある種の)が用意されていた。お見事と申し上げたい。真面目に生きたものが報われ、救われる世界であってほしいと思う。ラストで主人公が人間的に成長する姿が描かれている点も素晴らしい。

謎解き、どんでん返しのハッピーエンド、主人公の成長の三つがきれいに決まって、良い物語を読んだという気にさせてくれる。

インターネットは世界とつながっており、日本は世界中のサイバー犯罪組織や諜報機関の格好の狩り場になっている。自分のスマホや職場のパソコンあるいはサーバーが海外からの攻撃で知らない間に乗っ取られていたり、暗号化されて人質にとられることは絵空事ではない。むしろ海外からの攻撃の方が国内からの攻撃よりも、身近でリアルだったりする。次作では、そんな話も出てくるかもしれない。

魅力的な登場人物たちとの再会を期待したい。
《一田 和樹》

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